知られざる第二次時世界大戦期の傑出した人物~第一回目:中野学校の創設者、岩畔豪雄PART.1~
おはようございます。ブログの管理人サカキです。このブログでは、私が興味を持った第二次世界大戦期の人物を、ウィキペディアその他資料を読み、その感動をみなさまに届けたいと思います。初めてですので暖かくご指摘していただけますようにお願い申し上げます。
今回お届けする人は、陸軍中野学校の創設者の岩畔豪雄元陸軍少将です。といわれて頭に思い浮かぶ方はどれくらいいらっしゃるでしょうか。おそらく少ないでしょう。それどころか、そもそも陸軍中野学校とは何なのかわからない人も多いのではないでしょうか。そんな人も以下の画像を見ればわかるかもしれません。
そう。柳広司原作のアニメ化作品「ジョーカー・ゲーム」です。このD機関のモデルこそが陸軍中野学校なのです。この創設メンバーの一人が岩畔豪元陸軍少将なのです。
「彼こそ結城中佐のモデルなのでは!」と思い彼の情報をウィキペディアで少し調べてみました。すると彼の顔写真が現れました。
どう見てもD機関の創設者で「魔王」と呼ばれた結城中佐と似ていません。以下の写真が結城中佐ですが、どう見ても以下の写真のほうがかっこいい。
さらに調べたところ、岩畔豪雄元陸軍少将は中野学校の初代校長ではありません。以下の写真に写る男、秋草俊陸軍中佐が初代校長でした。
顔太っているけど、岩畔元陸軍少将のようなブサメンじゃないからいいかな(笑)
…(ウォホン!)……、失礼しました。
ともかく秋草中佐こそ取り上げるべき人物ではないか。みなさん、そう思いませんか。
かく言う私もそう思いました。
しかし岩畔元陸軍少将の活躍の幅は結城中佐に匹敵するのです。彼は諜報活動のみならず、陸軍機構本部の新設・近衛内閣の研究会「国策研究会」の編成から日独伊三国同盟締結の促進・日米開戦回避のための交渉に従事しています。
当時政府から求められたこと全てにおいて従事しながら結果を残しているのです。
事実、日米交渉の時にハルノートをつきつけたアメリカ国務長官のコーデン・ハルは
その真剣な交渉姿勢に
「今後、(日米関係)がどんなことになっても君たちの真剣な努力は忘れないし、君たちの安全は私が保証する」
と述べ、さらには
「私にもあんな(岩畔のような)優秀な部下がいたらどんなに助かるだろうか。」
とよく漏らしていたそうです。
このよう上司の多くの要求に対してきっちりと成果を残している人物は現代においてもいないではないだろうか。自身の能力で様々なことに関わっていった岩畔豪雄元陸軍少将こそ、第二次世界大戦期の傑出した人物ではないか。
そう想い以下の資料を読んで得た感動をみなに届けたい。これ以上書くと長くなるので本日はここで終了とします。ご覧になっていただきありがとうございます。
またいつかお会いしましょう。
参考資料
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さらにジョーカーゲームのリンクも貼り付けます。アニメ嫌いの人も「バカバカしい」と思うことなく、実話をもとにしたようなスパイ物ミステリーが楽しめます。
興味のある方は是非購入してみてください。
文庫本
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またジョーカー・ゲームの動画も貼り付けます。こちらを見てブルーレイ等を購入したいかたがいらっしゃいましたら、購入してみてください。